地域社会の発展に私財を投じた昭和の⽯油王
新津恒吉翁は明治3年、新潟県三島郡出雲崎町に⽣まれました。9歳で⽗を失い、翌年から雑貨商の⾒習い⼩僧となります。18歳で家業の⼩間物⾏商を継ぎ、23歳より⽯油精製業を始めます。38歳の時、能代川の⼤⽔害で⼯場が流出。事業はふりだしに戻りますが、新津市の⽯油発掘業者‧中野貫⼀⽒の知遇を得、その後業績は上昇に転じます。55歳で不洗浄揮発油を発売、その名を全国に知られるようになりました。
⼩さい頃から⾝近にいた親戚筋に当る義雄⽒を養⼦として迎え、義雄⽒には「⼀流の教育を与えるが、余分な財産は残さない」ことを告げた上で、昭和10年、2つの建築事業に着⼿します。1つは新潟市⺠のため私財を投じて公会堂を建てて寄付すること。もう1つは、⾃宅の⼀⾓に迎賓館としてのゲストハウスを建てること。かくして昭和13年、公会堂とゲストハウスがそれぞれ完成し、公会堂には翁の銅像が建⽴されました。しかし翌14年、翁は69歳でこの世を去ります。結局、このゲストハウスに外国からの賓客を迎えることは⼀度もありませんでした。
新津恒吉翁は全国的にも豊富な産油量を誇った⽯油の国‧越後にあって⽯油精製に⽣涯をかけ、⼀⼈⼀業主義を貫きました。また、新潟市公会堂に⾒られるように、地域社会への貢献を⼤事にした⼈物でもありました。新潟市公会堂は新潟市⺠芸術⽂化会館(りゅーとぴあ)に姿を変えましたが、翁の精神を伝えるゲストハウスは新津記念館として修復され、⼀般に公開されています。なお、新潟市⺠芸術⽂化会館前には翁の銅像があり、1階には新津記念室が設けられています。